藤井健仁 彫刻総覧 弐 彫刻鉄面皮 + NEW PERSONIFCATION

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シリアスでいて猥雑な…   

 越後谷卓司(えちごや たかし) 愛知県文化情報センター学芸員
 

  藤井健仁の彫刻は、一貫して鉄という素材を用いながら、その作品世界は多彩で、極端なまでの振幅を描いている。いや、むしろ分裂症的であり、引き裂かれていると言った方が適切で、それは今日の美術の真に歴史的な展開がみられない閉塞感の一方、サブ・カルチャーとの境界が曖昧化しその存在地自体が揺らいでいる状況の、反映といえなくもない。そして注目すべきは、このことが彼の作品に、痛みの感覚として刻印されるのではなく、それすらも貧欲に飲み込んでしまおうとする、ある強靭さの表情を与えていることだ。

  冒頭で幅広く多彩と形容した藤井の彫刻は、具体的には連作といった形で分類される。『outer organ』『air organ』と題された一連の作品群は、作家自身により「EXCULPTURE」シリーズと総称されている。
『outer organ』は金属質の臓器といったイメージの量塊感があり、『air organ』は空間を直接切り裂く様な複数の鋭角的フォルムが組み合わさった構造が作られている。フォルムにおいて共通点を持つ両作品群は、一種アナロク目的なニュアンスの抽象彫刻という点でも共通する。ただ、それは単に遅れた抽象彫刻ということに留まらない、ある異様さをたたえている。一見してシリアスなその造形は、同時にパロディ的な距離感を併せ持っているのだ。つまり、モダニズム彫刻を引き受けつつ、同時にそれを突き放して対象化し、独自の歴史的な虚構を組み立てようとしているかのようなのだ。

  「EXCULPTURE」シリーズに、既にパロディ的ニュアンスを見て取れるのだが、サブ・カルチャー的な通俗性が全面に押L出されたのが、雑誌掲載を前提に制作されている「彫刻刑「鉄面皮」」シリーズである。ビンラディンやブッシュ、鈴木宗男、野村沙加代、等々、どちらかといえばマイナスのイメージでマスコミに頻繁に登場する人物たちの顔面を、デスマスク風の金属彫刻に仕立てるこの仕事は、作品写真とともに作家自身がコメントを書き添えて記事になるという発表スタイルからも、彫刻版ナンシー関といった感さえ与える。しかし、その通俗的で軽薄な印象とは裏腹に、技術的には鉄板から叩き出して形態を作る手法が一貫しており、つぶさに眺めていると、結果的に鉄という素材の持つ歴史性もが焙り出されてくる構造が、実はその裏に隠されているようだ。

藤井は、前述した二つの両極端ともいえるシリーズにおいて、美術史、彫刻史を見つめたシリアスさと、時事的な通俗性にどっぷり漬かった猥雑さとを提示し、その両者が相互的に行き来し、時に反転するような世界を作りつつある。2000年以降にスタートした両シリーズに先立ち、1999年に第一作が発表された『海から離れて』は、ややグロテスクな少女像といった感じの人形彫刻ともいうべき作品だ。これは、「EXCULPTURE」シリーズと「彫刻刑「鉄面皮」」シリーズの、両方の要素が共存しているということから、現在展開している藤井の活動の、原点であり出発点である、といった印象を有している。つまり、モダニズムにおいては主流とは言い難い具象的な人物のフォルムを意識的に取り上げている点が前者に、そしてグロテスクと呼んでもいい顔の造形が後者へと、それぞれ引き継がれているように思えるからだ。それだけでなく、少女像という形態は直接的に人形を連想させ、その背後にある太古の呪術性といったものも強く想起させる。同時にこの人物像は、肥大気味の額や角張った頬といった顔たちによる異形性や、やや下腹が膨らんだ体つきが醸す不気味さが、終末的なSFの感覚を呼び起こす。その意味で、この彫刻は藤井のもう一つの重要なエッセンスと呼ぶべきだろう。実際このフォルムは、少女の鼻を雌型のように沈めたりするなど、いくつかのバリェーション的な展開を見せつつ、現在も継続されている。かつて舞踏公演の美術を手掛けという彼だが、そうした経験も、今後このシリーズに反映されてゆくのだろうか。興味を持ってその行方を見守りたい。

 

 

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